世の中ぼーっと生きてたい

ぼーっと生きてる坊さんの話。

「考える人」になりたい。

みずから疑問や問題を設定するっていうのが難しい。よく「書くこと」についての本や、「思考力を鍛える」といったたぐいの本の最初の方に、「問いを見つけよう」なんて書いてある。それがなかなかできない。

 

疑問を持つことってあんまりしてきませんでした。子供のころからいい子ちゃんを演じるタイプだったので、人の言うことは素直に聞く。その方が楽だし、怒られることもないから。怒られるのを極度に嫌う性格でした。子供なりの世渡り術だったのかもしれない。じぶんで考えて勝手に行動して怒られるくらいなら、言われたことを言われた通りにやってればいいじゃん、と思ったわけです。

それから、教えられたことについて「なぜそうなるの?」と考えることもなかった。1+1がなぜ2になるか、考えたところで結局1+1は2でしかないし、2って書けばテストで点数とれるんだからそれでいいじゃん、と。

 

その癖がなおらないから、例えば本に書いてあることや新聞に書いてあることも「ふんふんなるほど」とそのまま受け入れてしまう。それで一回読んだきり、分かったような気になって、じぶんで考えることもなく、やがて忘れていってしまう。

 

だからいろんな分野に興味はあっても、「ふんふんなるほど。よしわかった!」で終わってしまい、それ以上知識も、思考も深まっていかない。

 

その先にこそ、本当の意味での学びがあって、「ふんふんなるほど」はスタート地点でしかない。つまり一歩も踏み出せていないのだよ。

 

苦手だからと言ってずっとスタート地点に立ってはいられない。「なぜ?」「どうして?」の一歩目を踏み出したい。

 

その訓練として、どんなことができるだろう。

なんでも無理やり疑問をもってみる。そしてそれについてじぶんで考えてみる。

明確なこたえがあるかもわからないし、あったとして、正解しなくてもいい。とにかく「疑問」→「思考」の癖をつける。

そのあとには「仮説」→「検証」というプロセスがあるだろうが、いきなりそれはたぶん無理。あとでいい。

そしてすぐにググらない。考え続ける。頭だって、筋肉と同じように力を使いはたしてこそ成長していくものだと勝手に信じてる。

日々頭の力を使い果たしているか?否。大学卒業以来、頭使い果たしたなーという感覚はほぼ味わってない。

 

疑問をもとう。

じぶんで考えよう。

頭の力を使い果たそう。

 

この3原則を指針に頑張ってみようと思います。

 

とにかく書いてみる。そしたら心が軽くなった。

これまでいくつかの「書くこと」についての本を読んできました。

それらの多くには、「悩みがあったら書き出してみよう」というようなことがかかれていて、実際に日々なにかモヤモヤしたことがあったとき、ちょろっと書いてみたりしたけれど、あんまり効果が実感できませんでした。

 

最近このブログを書いたり、日々なにか考え事やモヤモヤがあったときにすぐメモ帳に書くようにし始めたら、少しずつ、書くことによって心が軽くなる感覚がわかってきた気がします。

 

やってることは一緒なのに、前と何が違うのだろう。

 

前はいざ書こうとペンを握りノートに向き合ったとき、余計な力が入っていたんだろうなと思います。だれに見られるわけでもないのに、ちょっとうまく書こうとか、難しいことばを使ってみたりとか、構成やまとめに気を使いすぎたりとか。

心で感じたこと、頭で考えたことを文字化するときの抵抗が大きすぎて、本来の目的である自分と向き合うことがちゃんとできてなった。

 

今はとにかく頭に浮かんだこと、心で感じたことをなるべくストレートに書くように心がけています。文章のうまさは二の次。ぱっと思い浮かんだことを、そのままに書き写していく。

そうすると、するすると考えや想いが流れ出てくる。それがすぐに文字化されていく。そのリズムがなんだか心地よくて、頭の中のうみみたいなものが流れ出ていく感覚になります。

 

たんなる気のせいかもしれないけど、「書くことで自分と向き合う」ということの第一歩はしっかり踏み出せているのかな、今回は。

少しずつでも書くために頭を動かし、心を動かす。そしてそれをとにかく書く。その循環を止めないように頑張りたいと思います。

家族みんなで仏器磨き。

年に1度、「おみがき」というイベントがあります。

たいていどこのお寺さんでもやっているのではないでしょうか。

 

仏器と呼ばれる、お勤めや法要のときにつかう金属製の器やろうそく立て、華瓶(金属の花瓶)などをぴかぴかに磨きます。

 

以前は近所のおばさんたちにお手伝いしてもらっていましたが、コロナ禍もあり今回は家族だけで行いました。

結婚して家を出た姉も帰ってきて、家族全員でのお磨き。家族みんなでなんて記憶にないくらい久しぶりでした。

 

特に話すこともなく、黙々とソフト研磨剤で汚れを落とし、新聞紙で仕上げの磨き。

これが意外と疲れる上、量も多いので大変です。

けれども、どんどん光沢を取り戻していく仏器を見ると、気持ちも晴れやかになります。

 

雨が続いたここ数日、今日は久々にいい天気。

縁側では猫が日向ぼっこ。猫の手なんて貸しやしない。

 

じいちゃんはおみがきが好きで、いつもぴかぴかに磨いてたそう。

いっぽうばあちゃんは割といい加減で、さっと磨いてすぐ終わりにしちゃうんだとか。

 

もう何年も前に死んじゃったけど、初めて聞いたエピソード。じいちゃんとばあちゃんらしくておかしかった。

親がこどもの時から、そして祖父母がこどものときから、そのまえからもずっと磨いてたんだな。

じぶんにこどもができたら、一緒に磨くのかな。

 

こどものころは面倒でいやだったおみがき。今日はなんだかいいものに思えました。

 

神社でのお参りと、お寺でのお参り。

ある時、若いカップルがお寺にお参りにきていた。

「あれ、お寺でのお参りってどうやるんだっけ」

「二礼二拍手一礼だよ、ばか」

「あーそうだそうだ」

 

それは神社でのお参りだよ!と危うくツッコむところだった。

 

後になって父にその話をしたら、「そんなのどっちだっていいんさ」と意外な返しをされた。

今のように神社と寺が区別されたのは明治期の神仏分離以降で、それまでの何百年もの間は神仏習合の時代。

神社の境内にお寺があり、逆もまた然り。

神も仏も一緒のものとして人々は祀り拝んできたのだろう。

その時人々はきっとお参りの仕方なんて気にしてなかったんじゃないだろうか。

 

それを思うとなるほど確かに、お寺で二礼二拍手一礼したってなんら問題ないような気がしてきた。大事なのはお参りしようという気持ちで、形は二の次でいい。

仏様や神様たちだって、「お参りの仕方がちがう!けしからん!」とはならないでしょう。

 

これと似たようなことで、御朱印帳を神社用とお寺用に分けている人がいる。

「神と仏を一緒にしたらよくないから」というが、何百年ものあいだ神様と仏様は一緒にされていたのだ。

分けるも分けないも自由だが、一緒にしてよくないことはないと思う。

また、そういう人によく「ここはお寺ですか?神社ですか?」と聞かれるが、もし分けるならお寺と神社の区別がつくようになってから分けましょうよ、と思わないでもない。

あと、「毘沙門天は神様だから神社用におねがい」という人もいる。確かに毘沙門天は仏ではなく神様だけど、もともとインドの神様が仏教に取り入れられたもの。

日本の神様とはルーツが違うのでどうなんだろうと思いながら、伊勢神宮御朱印の横に「毘沙門天」と書く。

 

ただそんな些細なこともどうでもよくて、お参りの仕方にしろ、御朱印の集め方にしろ、人それぞれの信仰の在り方があっていい。

 

こうしなきゃいけないという決まりの多くは、時代を経る中で「人」が作ったものだから。

 

それ以前の純粋な「祈り」の気持ちの方がよっぽど大事ではないでしょうか。

手料理で感謝を伝える母の誕生日。

母の誕生日。

この年になっても、なんだか恥ずかしくて

「いつもありがとう」なんて素直に伝えられなくて。

 

せめて気持ちのこもった手料理をふるまおうと思いました。

 

メニューはローストビーフバルサミコソース~、付け合わせにマッシュポテトときのことパプリカのソテー。それからオニオングラタンスープ。

 

ローストビーフコウケンテツさんのレシピを参考に。

牛モモ肉のブロックに塩をすりこみ、1時間常温で放置。

フライパンで表面に焼き色を付けたら一度とりだし、玉ねぎスライス、にんにく、ローリエをフライパンに敷き、肉を戻して酒小さじ2を加え5分蒸し焼きに。途中上下を入れ替えてさらに5分。その後アルミホイルでつつみ1時間放置。

 

肉と野菜のうまみが残ったフライパンにしめじとパプリカを入れ、ソテーに。

 

ジャガイモは洗ってペーパーでくるみ、さっとぬらしてからラップで包み電子レンジへ。500Wで7~8分。柔らかくなったらやけどに気をつけて皮をむく。裏ごしして、塩、生クリームをくわえ混ぜ合わせる。マッシュポテトの完成。

 

鍋にバター40gを入れ溶かす。繊維に沿ってスライスした玉ねぎ(大2個)を加え、あめ色になるまで炒めていく。こげないように注意。鍋肌に色が付き始めたらせっせと木べらで玉ねぎをこすりつけながらこそぐ。

しっかりあめ色になったら、小さじ2弱の小麦粉を加え、軽く炒め、つめたいブイヨンを加える。玉ねぎの甘みがスープに溶け出るように弱~中火でことこと20分煮込む。

バゲットをスライスし、表面ににんにくをこすりつけ、オーブントースターでカリッと焼く。ココットにスープを注ぎ、バゲットをのせ、おろしたグリュイエールチーズをふりかけ、オーブントースターで表面に軽く焼き色をつける。おいしいオニオングラタンスープの出来上がり。

 

ローストビーフにはバルサミコ酢と蜂蜜を煮詰めたソースをそえて。

 

めずらしく赤ワインで乾杯。

誕生日おめでとう。いつまでも元気でいてください。

やりたくないことを、やりたくない

やりたくないことを、やりたくない。

じゃあやらなきゃいいじゃないーそうはいかない。

 

ここ数年、やりたくもないことを、やらされている。

なぜこんなことしなければならないのか、とたずねると

「いつかきっと役に立つから」と。

 

来るかもわからない「いつかきっと」のために

嫌々やるしかないのか、我慢するしかないのか。

 

少しでも気を緩めたら、すべてを投げ出してしまいそうになるから

心を殺して、なにも感じないようにして、ただ耐えるだけの毎日。

 

変わらなきゃいけないのはじぶんだって、わかってはいるつもり。

どんなことだって無駄なことなんて一つもなくて、いろんな学びを得ることができる。

生かすも殺すもじぶん次第だ。

「はぁ、こんな人生…」なんて嘆いてる暇があったら、はよやれよ。

いくら文句をいったって、なにかが変わるわけもない。

やりたいことを見つけられず、みずから何かを始めようともせず、

他人の言うとおりに生きて、楽してきた結果だろ。

 

やりたいことをやるには、それ相応の覚悟と努力が必要で、苦しみや困難もつきまとう。

きっとやりたいことがあったとしても、「思ってたのと違う」とかなんとかいって、すぐ投げ出していたに違いない。人間性が変わらない限り、なにをやっても一緒だ。

 

あー。頑張るしかない、やるしかない。

意味を考えても仕方がない。役に立つかどうかなんて、関係ない。一生懸命にならなくたっていい。うまくやろうとしなくていい。やるからには今後の人生に生かそうとかおもわなくていい。

やれ。やれば終わる。

 

仏教辞典の最初のことばは「愛」でした。

仏教辞典にのってる一番最初のことばってなんだろうとおもい

手元にあった「岩波仏教辞典第二版」を開いたら

「愛」

でした。

 

愛かー。キリスト教とか他の宗教では大事なことばだと思うけど

仏教ではあまりいい意味で使われないイメージがあります。

愛は執着、つまりなにかに固執することで、欲をうみ迷いの元となる…みたいな。

 

そんな「愛」について。

最近友達の結婚ラッシュで、「愛」とか「結婚」について考えることがよくあります。

独身、彼女無し、恋愛経験も多くないぼくには縁遠いことばですが、だからこそよく考えてみたい。

「愛」ってなんだろう。人はどうして「結婚」するんだろう。

 

どうして誰かを好きになるのだろう。その人のなにを好きになったのだろう。

顔か?性格か?一緒にいて楽しいからか?

顔がよくても、性格がよくても、一緒にいて楽しくても、いわゆる恋愛関係の「好き」にならない人だっているじゃないか。

 

でもたしかに「好き」という気持ちは沸き起こる。

あの気持ちはなんなんだ!?生物的な本能でしかないのか?

 

昔の自分を思い出してみる。誰かを好きになったとき、その人に対してなにを思ったのだろう。

それは

「ぼくがその人を好きであるように、その人にもぼくを好きでいてほしい」

ということだったかもしれない。

その人がぼくを好きでいてくれれば、じぶんの存在が肯定されるような気がした。

無条件にじぶんを認めてくれる存在として、その人を求める…。

「好き」とはこういうことだ、とは言い切れませんが、少なくとも過去の経験を振り返って、そんな見方もできるなぁと思いました。

 

じぶん一人ではじぶんのことを認めてあげられない。だから誰かを好きになって、その人に認めてもらう。あなたはそのままでいいいんだよ、と言ってほしい。じぶんってこんなにか弱い人間だったのか!

それこそ昔の坊さんのように、俗世を離れ一人山奥で修行する、そんな強い生き方に憧れます。

 

でも、誰かと一緒に生きていくことは悪いことじゃない。その人の人生も一緒に歩んでいけるのだから、2倍人生を楽しめるじゃないか。お得だ。

 

人間の弱さを補い、生き抜く力として備わった機能、それが「愛」。今日のところはここを落としどころとします。

 

まぁ恋が実らず、すべてに絶望し生きる力を失うこともありますがね…。その時はその時!