世の中ぼーっと生きてたい

ぼーっと生きてる坊さんの話。

何のために生きるか。

たまに、じぶんの生きている意味を問いたくなる瞬間がある。何のために生きているのか。人生に何の意味があるのか。

 

考えたところで大した答えはみつからなくて、人生の意味のなさに、全てを投げ出してしまいたくもなる。やがて別のことを考え始めて、人生の意味についてなんてすっかり忘れて、また生きていく。

 

人生の意味とは、考えてみつかるものではないのかもしれない。

日々の生活の積み重ねの中で、じぶんにとってなにか大事なものを見つけたときに、じぶんの人生をみずから意味付けていくのだ。

たとえば家族、恋人であったり、仕事や趣味、夢や目標。一定ではなく、複数あったり、ときどき変わったりもするだろう。

 

じぶんの人生をいかに意味付けるか。

それこそが生きている意味なのかもしれない。

 

話は変わるが、大学時代のある教授がこんなことを言っていた。

 

「嘘ばかりついていた男が、死の間際に"自分は嘘つきだった"と言ったとしたら、その男はこの上ない正直者として死ぬのだ」

 

どんな文脈で出た話かは忘れてしまったが、なんだか妙に納得してしまって、この言葉だけ記憶に残っている。

 

これを先程の人生の意味付けという文脈で考えたとき、つまりは死の間際まで人生を意味付けることが可能だということを言いたいのです。

 

どんなに苦しいことがあろうとも、「楽しい人生だった」と少しでも思えたなら、その瞬間その人の人生は楽しいものになる。

 

ただ実際には、病気とか不慮の事故とか、思わぬ形で命を落としてしまうかもしれない。じぶんの人生を振り返る余裕なんてないかもしれない。死の直前に何を思っているのかなんて想像もできない。

 

それを思うに、毎日毎日を大事に生きていくしかない。生きる為に生きるーそんなシンプルな意味付けでも十分だし、それが一番大事な意味かもしれない。