世の中ぼーっと生きてたい

ぼーっと生きてる坊さんの話。

じぶんの中の動機を探る。

何事をなすにも大事なのは「動機」だと思います。

動機なしにやっていることは、ただやらされていることと同じで、何にもならない。

まったく意味がない、とまでは言わないけれど、動機を明確にしたうえで取り組むことと比べたら、得られるものや結果は大きく変わってくるのではないでしょうか。

当たり前のことだけど、日々取り組んでいると、どうしてこれをやろうと思ったんだったっけ?と、動機が薄れてしまうこともしばしば。やらなきゃいけないことに追われて、動機を見失っていることにすら気づかない、ということもよくあります。

 

動機を見失っているとき、あるいはそもそも動機が弱いときに壁にぶちあたると、その壁は何倍にも大きく見えて、じぶんの存在も小さく感じて、太刀打ちできなくなってしまう。そんな経験はよくあります。

 

じぶんにとって仏教を学ぶということは、なによりも大事だということは頭ではわかっていました。でも、「坊さんになるんだから仏教を学んで当たり前」「寺の息子なんだから仏教を勉強する」という動機は、ぼくにとっては弱かった。

大学時代、ほかの分野を専攻するという選択肢はあったものの、強烈な興味があるわけでもなく、当然のように仏教を専攻しましたが、「どうしても学びたい」というじぶんのなかから湧き上がる強い動機はありませんでした。

もちろん学べたことは多くあり、いまでもその学びは役に立っていますが、もっと強い動機があったなら、より深い学びが得られただろうなと思います。

 

そこで、改めて動機を考えてみる。どうして、なんのために仏教を学ぶか。

いまのところ「これかなぁ」とうっすら抱いているのは、「世の中を面白がるため」です。

 

将来こういう人になりたいなと思う、尊敬している人たちがいます。芸能人や作家など職業はさまざまですが、その人たちに共通していることは、「世の中を面白がること、その面白さを伝えることに長けている」ということです。とにかくその人たちの話が面白い。なぜ面白いのか考えてみると、その人たちのものの見方や考え方の独特さ、斬新さが面白い。さらにその見方や考え方の源泉をたどってみると、それぞれの人の中に一本の筋となっている信念だとか思想だとかが浮かび上がってくる。

つまりその人たちの核となっている思想を評価軸や価値基準として、それをとおして物事を捉えているから、「面白い」が薄っぺらでなく厚みのあるものとして受け手であるぼくに伝わってくるんじゃないかな、と思ったわけです。

 

では、ぼくにとって核となる思想と成りえるものは何だろうと考えたとき、そこに仏教を当てはめてみたら、意外と世の中を今より面白がれるんじゃないかなぁ、と。

 

徳の高い高僧になるため、だとか、悩み苦しんでいるひとのためといった壮大な動機はいまのぼくにはイメージしづらい。

「この考え方って仏教に通ずるものがあって面白いなー」「仏教のこういう考え方って現代の世の中にも当てはめられるよね」というふうに、もっと仏教を身近に引き寄せて、ちょっと世の中の見方が面白くなる仏教、くらいのライトな接し方から始めてみてもいいんじゃないかなと思っています。

そうした動機付けから初めてみて、途中でもっといい動機が見つかるかもしれない。もっと仏教について知りたい、考えたいという純粋な動機に結び付くかもしれない。

 

実はこの動機、何年か前に適当にメモしていたものを今日たまたま見つけたのです。こんなこと考えてたのか、とじぶんでも忘れてましたが、なんだか過去のじぶんに勇気づけられた気がしました。

過去のじぶんからの未来へのメッセージ。はからずも「書くこと」の素敵な効果を実感した瞬間でもありました。