仏教辞典の最初のことばは「愛」でした。
仏教辞典にのってる一番最初のことばってなんだろうとおもい
手元にあった「岩波仏教辞典第二版」を開いたら
「愛」
でした。
愛かー。キリスト教とか他の宗教では大事なことばだと思うけど
仏教ではあまりいい意味で使われないイメージがあります。
愛は執着、つまりなにかに固執することで、欲をうみ迷いの元となる…みたいな。
そんな「愛」について。
最近友達の結婚ラッシュで、「愛」とか「結婚」について考えることがよくあります。
独身、彼女無し、恋愛経験も多くないぼくには縁遠いことばですが、だからこそよく考えてみたい。
「愛」ってなんだろう。人はどうして「結婚」するんだろう。
どうして誰かを好きになるのだろう。その人のなにを好きになったのだろう。
顔か?性格か?一緒にいて楽しいからか?
顔がよくても、性格がよくても、一緒にいて楽しくても、いわゆる恋愛関係の「好き」にならない人だっているじゃないか。
でもたしかに「好き」という気持ちは沸き起こる。
あの気持ちはなんなんだ!?生物的な本能でしかないのか?
昔の自分を思い出してみる。誰かを好きになったとき、その人に対してなにを思ったのだろう。
それは
「ぼくがその人を好きであるように、その人にもぼくを好きでいてほしい」
ということだったかもしれない。
その人がぼくを好きでいてくれれば、じぶんの存在が肯定されるような気がした。
無条件にじぶんを認めてくれる存在として、その人を求める…。
「好き」とはこういうことだ、とは言い切れませんが、少なくとも過去の経験を振り返って、そんな見方もできるなぁと思いました。
じぶん一人ではじぶんのことを認めてあげられない。だから誰かを好きになって、その人に認めてもらう。あなたはそのままでいいいんだよ、と言ってほしい。じぶんってこんなにか弱い人間だったのか!
それこそ昔の坊さんのように、俗世を離れ一人山奥で修行する、そんな強い生き方に憧れます。
でも、誰かと一緒に生きていくことは悪いことじゃない。その人の人生も一緒に歩んでいけるのだから、2倍人生を楽しめるじゃないか。お得だ。
人間の弱さを補い、生き抜く力として備わった機能、それが「愛」。今日のところはここを落としどころとします。
まぁ恋が実らず、すべてに絶望し生きる力を失うこともありますがね…。その時はその時!