人の欲は、終わらない。
この季節になると新しい秋冬用の服が欲しくなります。
別に流行やおしゃれに敏感という訳でもありませんが、なんだか毎年のように新しい服を買ってしまいます。
だけど、おしゃれをして外出する機会なんてほとんどなくて、タンスをみれば去年買った服がきれいにたたまれたまま眠っていたりする。
今年はどんな服を買おうかとあれやこれや見ているときは楽しいのに、いざ商品が届いてみると、選んでいた時のわくわく感が急にしぼんでしまうことってないでしょうか。
そういう時は、買って満足してしまう、というか、買うこと自体が目的になってしまっているのではないかと思いました。
『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』(スラヴォイ・ジジェク著、鈴木晶訳)では、欲望の正体について
「欲望の実現とは、それが『みたされ』、『充分に満足させられ』ることではなく、むしろ欲望そのものの再生産、つまりその循環運動と一致するのである」
と説いており、なるほどなと思いました。
つまり、人間の欲望の最終目標とは、その欲望を満たすことではなくて「欲望している状態」を維持することであって、言い換えれば、人間は常になにか特定の対象を欲望しているのではなく、欲望することを欲望しているのだ、と。
なんだか訳がわからなくなってきますが、あの服を選んでいるときのわくわく感こそが「欲望している状態」であって、なにか特定の商品を買ってしまったが故に、「欲望している状態」はストップしてしまい、わくわく感もしぼんでしまう。
逆を言えば、その商品で満足してしまっては次なる欲望が生産されないために、自らわくわく感を消している、と言えなくもないかもなぁと思いました。
そうなると、「買うこと」も目的ではなく、「何を買うか迷うこと」が目的となっていて、毎年大して着もしない服を買ってしまっているのです。
だったら買わずにずっと迷っていればいいのに、そうもいかずに買ってしまう。
人間の欲とはなんとやっかいなものか・・・。
まぁ、たまにお金をがっつり使うとすっきりする、ということもありますしね。
せめて今年はおしゃれをして、外を出歩く努力をしようと思います。
何のために生きるか。
たまに、じぶんの生きている意味を問いたくなる瞬間がある。何のために生きているのか。人生に何の意味があるのか。
考えたところで大した答えはみつからなくて、人生の意味のなさに、全てを投げ出してしまいたくもなる。やがて別のことを考え始めて、人生の意味についてなんてすっかり忘れて、また生きていく。
人生の意味とは、考えてみつかるものではないのかもしれない。
日々の生活の積み重ねの中で、じぶんにとってなにか大事なものを見つけたときに、じぶんの人生をみずから意味付けていくのだ。
たとえば家族、恋人であったり、仕事や趣味、夢や目標。一定ではなく、複数あったり、ときどき変わったりもするだろう。
じぶんの人生をいかに意味付けるか。
それこそが生きている意味なのかもしれない。
話は変わるが、大学時代のある教授がこんなことを言っていた。
「嘘ばかりついていた男が、死の間際に"自分は嘘つきだった"と言ったとしたら、その男はこの上ない正直者として死ぬのだ」
どんな文脈で出た話かは忘れてしまったが、なんだか妙に納得してしまって、この言葉だけ記憶に残っている。
これを先程の人生の意味付けという文脈で考えたとき、つまりは死の間際まで人生を意味付けることが可能だということを言いたいのです。
どんなに苦しいことがあろうとも、「楽しい人生だった」と少しでも思えたなら、その瞬間その人の人生は楽しいものになる。
ただ実際には、病気とか不慮の事故とか、思わぬ形で命を落としてしまうかもしれない。じぶんの人生を振り返る余裕なんてないかもしれない。死の直前に何を思っているのかなんて想像もできない。
それを思うに、毎日毎日を大事に生きていくしかない。生きる為に生きるーそんなシンプルな意味付けでも十分だし、それが一番大事な意味かもしれない。
人にやさしく。
「やさしいね」と昔からよく言われた。
褒めるところがなかったから、とりあえず「やさしい」と言っていただけかもしれないけれど、じぶんでもそれがじぶんの長所だと思い込んで、誰にでもやさしくあろうとした。
でもあるとき、じぶんのやさしさって本心からの「やさしさ」なのか、誰にでもやさしくしようとするその裏の本心ってなんだろうとふと気になった。
なんだか「やさしくする」ということをはき違えているのではないかとじぶんながらに感じてしまった。
そのころは相手のすべてを受け入れることがやさしさだと思っていた。たとえじぶんがいやな思いをしたとしても、無条件で相手を受け入れる。決してじぶんからいやだとは言わない。そんなことを言ったら、すぐ相手から嫌われてしまうと思っていた。
「相手から嫌われる」ーそれを僕は極端に恐れていた。別に過去に何かあったわけではないが、なぜか人から嫌われることを怖れていた。
そんな恐怖心から、誰からも嫌われまいと、「みんなにやさしい人」を演じていたのだった。そして相手がじぶんのことをどう思っているのか、嫌われていないかばかりを気にしていた。
しかし、そのことに気が付いたとき、じぶんは少しも相手のことを見ても考えてもいなかったことにも気づいた。相手の中にいるじぶんの姿ばかりを気にしていたのだ。
じぶんの「やさしさ」は、純粋に相手に向けられたやさしさではなく、相手の中にいるじぶんへの「やさしさ」、見返りをもとめるためだけの「やさしさ」だったのだ。そう考え至ったとき、いままでのじぶんが浅ましく、みっともなく見えた。なにが「だれにでもやさしく」だよ、じぶん大好き人間じゃんかよ、と。
じぶんが他人にどう思われているかということを、少しずつ気にせずいられるようになってきた。他人がじぶんをどう思っているかということに、じぶんでは干渉し得ないということもわかってきた。だからといって、じぶんの好き勝手にやる、というわけにもいかない。
あらためて、「人にやさしく」とはどうあるべきか考え直していきたい。
努力は美しい。
毎日の生活を振り返ってみると、どれほど無駄な時間をすごしているかということに気づいて絶望することがよくあります。
この無駄な時間を別の事にあてていれば、と後悔してみるものの、それを改善しようという気概もなく、結局だらだらしてしまう。
河野玄斗さんの本「東大医学部在学中に司法試験も一発合格した僕のやっている シンプルな勉強法」を読みました。
東大医学部に在籍しながら司法試験に一発合格なんて、どんだけ天才なんだよと思わずにはいられないが、人より努力したからだと彼は言い切ります。
きっと日々の中の時間をきりつめて、使える時間はすべて勉強にあて、必死になって努力を積み重ねてきたんだ。
「天才型」と「努力型」なんて区別もあるけれど、天才も少なからず努力しているわけで、努力して初めてその才能が発揮される。
天才ですら努力するんだから、凡人ならなおさら努力しなくちゃいけない。
才能がないからといって努力しなくていい言い訳にはならない。
「努力は美しい」という言葉に胸をうたれました。
「努力は裏切らない」とか「努力は報われる」とか、そういう言い方はあんまり好きじゃありません。努力をして得られる「結果」から、努力の価値を判断しているような気がするから。
そうじゃなくて、努力そのものに価値があるんだ。努力の価値は絶対的で、その努力がもたらす結果は結果でしかない。その結果がよかろうが悪かろうが、努力すること自体に価値がある。だから努力は美しいのだ。
じぶんの中の動機を探る。
何事をなすにも大事なのは「動機」だと思います。
動機なしにやっていることは、ただやらされていることと同じで、何にもならない。
まったく意味がない、とまでは言わないけれど、動機を明確にしたうえで取り組むことと比べたら、得られるものや結果は大きく変わってくるのではないでしょうか。
当たり前のことだけど、日々取り組んでいると、どうしてこれをやろうと思ったんだったっけ?と、動機が薄れてしまうこともしばしば。やらなきゃいけないことに追われて、動機を見失っていることにすら気づかない、ということもよくあります。
動機を見失っているとき、あるいはそもそも動機が弱いときに壁にぶちあたると、その壁は何倍にも大きく見えて、じぶんの存在も小さく感じて、太刀打ちできなくなってしまう。そんな経験はよくあります。
じぶんにとって仏教を学ぶということは、なによりも大事だということは頭ではわかっていました。でも、「坊さんになるんだから仏教を学んで当たり前」「寺の息子なんだから仏教を勉強する」という動機は、ぼくにとっては弱かった。
大学時代、ほかの分野を専攻するという選択肢はあったものの、強烈な興味があるわけでもなく、当然のように仏教を専攻しましたが、「どうしても学びたい」というじぶんのなかから湧き上がる強い動機はありませんでした。
もちろん学べたことは多くあり、いまでもその学びは役に立っていますが、もっと強い動機があったなら、より深い学びが得られただろうなと思います。
そこで、改めて動機を考えてみる。どうして、なんのために仏教を学ぶか。
いまのところ「これかなぁ」とうっすら抱いているのは、「世の中を面白がるため」です。
将来こういう人になりたいなと思う、尊敬している人たちがいます。芸能人や作家など職業はさまざまですが、その人たちに共通していることは、「世の中を面白がること、その面白さを伝えることに長けている」ということです。とにかくその人たちの話が面白い。なぜ面白いのか考えてみると、その人たちのものの見方や考え方の独特さ、斬新さが面白い。さらにその見方や考え方の源泉をたどってみると、それぞれの人の中に一本の筋となっている信念だとか思想だとかが浮かび上がってくる。
つまりその人たちの核となっている思想を評価軸や価値基準として、それをとおして物事を捉えているから、「面白い」が薄っぺらでなく厚みのあるものとして受け手であるぼくに伝わってくるんじゃないかな、と思ったわけです。
では、ぼくにとって核となる思想と成りえるものは何だろうと考えたとき、そこに仏教を当てはめてみたら、意外と世の中を今より面白がれるんじゃないかなぁ、と。
徳の高い高僧になるため、だとか、悩み苦しんでいるひとのためといった壮大な動機はいまのぼくにはイメージしづらい。
「この考え方って仏教に通ずるものがあって面白いなー」「仏教のこういう考え方って現代の世の中にも当てはめられるよね」というふうに、もっと仏教を身近に引き寄せて、ちょっと世の中の見方が面白くなる仏教、くらいのライトな接し方から始めてみてもいいんじゃないかなと思っています。
そうした動機付けから初めてみて、途中でもっといい動機が見つかるかもしれない。もっと仏教について知りたい、考えたいという純粋な動機に結び付くかもしれない。
実はこの動機、何年か前に適当にメモしていたものを今日たまたま見つけたのです。こんなこと考えてたのか、とじぶんでも忘れてましたが、なんだか過去のじぶんに勇気づけられた気がしました。
過去のじぶんからの未来へのメッセージ。はからずも「書くこと」の素敵な効果を実感した瞬間でもありました。
好きなものはなんですか?
じぶんの好きなものについて熱く語れるひとに憧れます。
学生時代にバイトをしていた会社で、ライティングについてのセミナーというかイベントがありました。そこでの課題の一つが、「じぶんの好きなもの」についての記事の作成。
そのイベントに参加したわけでもなく、裏方として直接かかわっていたわけでもないので、外から眺めていただけですが、じぶんだったらなにについて書くかなぁなんて考えてみたけれど、そのときは思いつきませんでした。
もちろん好きなものはある。けれど、それをひとにどう伝えようかと考え始めると、そのものについて実はよく知らなかったり、どういうところが好きなのかと問われるとうまく説明できなくて、「あれ、実はそんなに好きでもないのか?」と不安になってしまったり。
そんな中、イベントに携わっていた社員さんの言葉がいまでも印象に残っています。
「きっと多くの人は、そのものが好きなんじゃなくて、そのものが好きなじぶんが好きなんじゃないかな。そういう人の文章は好きの気持ちがあんまり伝わってこない」
なんだかぐさっと胸にささったというか、そういわれるとじぶんもそうかもしれない、と思いました。
当時、なにかを「好きだ」というとき、それを他人に言ったときにどう思われるか、笑われたり馬鹿にされたりしないか、と心の隅っこで考えていたような気がします。
特に学生時代は、好きなもの=センスの表れみたいな雰囲気を感じて、じぶんの「好き」に忠実になれず、誰かがいいと言ったものを好きになってみたり。あるいは、サークル内でのじぶんのアイデンティティー確立のために、ほかに好きと言ってる人がいないものを好きといってキャラづくりしてみたり。
常に「〇〇を好きと言ってるじぶん」ばかり考えていたように思います。
先の社員さんの発言の真意とは違っているかもしれないけれど、その時じぶんには好きと胸をはって言えるものが無いと気づきました。
でも周りをみると、じぶんの好きなものについていきいきと語れる人たちがいっぱいいて、そういう人たちの話って本当におもしろくて、自然と興味をそそられる。
どうしたらそうなれるんだろう。じぶんが本当に好きなものってなんだろう。
みなさんの好きなものはなんですか?
じぶんの平凡さを受け入れよう。
じぶんで考えたこととか、思いついたことって
じぶんではおもしろいぞと思ったり、誰も思いついてないんじゃないか?なんて思ったりしちゃう。
でも実際にそれを表に出してみると、みんな同じようなことを考えていて、そんなに目新しいものでもなければ大して面白くもない、陳腐なものなんだと気づく。
それで落ち込んでしまうこともしばしばある。やっぱりじぶんって平凡な存在で、特別な才能なんてなかったんだなーなんて。その現実を受け入れるのはつらいことだ。
おちついて考えてみればそんなこと当たり前で、誰も考えつかなかったことをじぶんが思いつくなんてことはあり得ない。
おもしろいという価値観もひとそれぞれで、万人に受け入れられるおもしろさなんて存在するかもわからない。
だとすると、じぶんの考えが陳腐なものだったからといって落ち込む必要なんてないのかな。むしろ「案外じぶんの考えなんて大したことないな」と気づくことにこそ意味があるんだと思う。
じぶんひとりでずっと考えていて、それを誰にも言わずにいたら気づけない。
事あるごとにじぶんの考えを他人の目にさらし、あるいは他人の考えと突き合わせてみることが大事なんじゃないかなと思う。
いまのじぶんにとって、「じぶんを外にひらく」ことの重要性ってきっとそこにある。
ともすると、「おれの考えを世の中に知らしめてやろう」なんて考えてしまいがちだけど、そうじゃなくて、いかにじぶんの考えが陳腐なものか、じぶんでじぶんに酔いすぎていないか点検するためにこうして何かを発信するのだ。
そうしてはじめて、じゃあじぶんらしい考えって何だろうか、どうしたら自分にしかできないものごとの捉え方ができるだろうか、ともう一歩踏み込んだじぶんとの向き合い方ができるんじゃないだろうか。
ひとからよく思われようとして何かを装ったり隠したり、あるいは傷つくのが嫌だからと他人を遠ざけていたら、いつまでもじぶんとは向き合えない。じぶんのことがどんどんわからなくなっていくか、または「じぶんはこういう人間だ」と勝手に決めつけてその考えから逃れられなくなる。そうして悩んでいた時期も実際にあった。
そうならないために、たとえ笑われようとも傷つこうとも、外にひらくことを続けていきたい。