神社でのお参りと、お寺でのお参り。
ある時、若いカップルがお寺にお参りにきていた。
「あれ、お寺でのお参りってどうやるんだっけ」
「二礼二拍手一礼だよ、ばか」
「あーそうだそうだ」
それは神社でのお参りだよ!と危うくツッコむところだった。
後になって父にその話をしたら、「そんなのどっちだっていいんさ」と意外な返しをされた。
今のように神社と寺が区別されたのは明治期の神仏分離以降で、それまでの何百年もの間は神仏習合の時代。
神社の境内にお寺があり、逆もまた然り。
神も仏も一緒のものとして人々は祀り拝んできたのだろう。
その時人々はきっとお参りの仕方なんて気にしてなかったんじゃないだろうか。
それを思うとなるほど確かに、お寺で二礼二拍手一礼したってなんら問題ないような気がしてきた。大事なのはお参りしようという気持ちで、形は二の次でいい。
仏様や神様たちだって、「お参りの仕方がちがう!けしからん!」とはならないでしょう。
これと似たようなことで、御朱印帳を神社用とお寺用に分けている人がいる。
「神と仏を一緒にしたらよくないから」というが、何百年ものあいだ神様と仏様は一緒にされていたのだ。
分けるも分けないも自由だが、一緒にしてよくないことはないと思う。
また、そういう人によく「ここはお寺ですか?神社ですか?」と聞かれるが、もし分けるならお寺と神社の区別がつくようになってから分けましょうよ、と思わないでもない。
あと、「毘沙門天は神様だから神社用におねがい」という人もいる。確かに毘沙門天は仏ではなく神様だけど、もともとインドの神様が仏教に取り入れられたもの。
日本の神様とはルーツが違うのでどうなんだろうと思いながら、伊勢神宮の御朱印の横に「毘沙門天」と書く。
ただそんな些細なこともどうでもよくて、お参りの仕方にしろ、御朱印の集め方にしろ、人それぞれの信仰の在り方があっていい。
こうしなきゃいけないという決まりの多くは、時代を経る中で「人」が作ったものだから。
それ以前の純粋な「祈り」の気持ちの方がよっぽど大事ではないでしょうか。