世の中ぼーっと生きてたい

ぼーっと生きてる坊さんの話。

人にやさしく。

「やさしいね」と昔からよく言われた。

褒めるところがなかったから、とりあえず「やさしい」と言っていただけかもしれないけれど、じぶんでもそれがじぶんの長所だと思い込んで、誰にでもやさしくあろうとした。

 

でもあるとき、じぶんのやさしさって本心からの「やさしさ」なのか、誰にでもやさしくしようとするその裏の本心ってなんだろうとふと気になった。

なんだか「やさしくする」ということをはき違えているのではないかとじぶんながらに感じてしまった。

 

そのころは相手のすべてを受け入れることがやさしさだと思っていた。たとえじぶんがいやな思いをしたとしても、無条件で相手を受け入れる。決してじぶんからいやだとは言わない。そんなことを言ったら、すぐ相手から嫌われてしまうと思っていた。

 

「相手から嫌われる」ーそれを僕は極端に恐れていた。別に過去に何かあったわけではないが、なぜか人から嫌われることを怖れていた。

そんな恐怖心から、誰からも嫌われまいと、「みんなにやさしい人」を演じていたのだった。そして相手がじぶんのことをどう思っているのか、嫌われていないかばかりを気にしていた。

 

しかし、そのことに気が付いたとき、じぶんは少しも相手のことを見ても考えてもいなかったことにも気づいた。相手の中にいるじぶんの姿ばかりを気にしていたのだ。

 

じぶんの「やさしさ」は、純粋に相手に向けられたやさしさではなく、相手の中にいるじぶんへの「やさしさ」、見返りをもとめるためだけの「やさしさ」だったのだ。そう考え至ったとき、いままでのじぶんが浅ましく、みっともなく見えた。なにが「だれにでもやさしく」だよ、じぶん大好き人間じゃんかよ、と。

 

じぶんが他人にどう思われているかということを、少しずつ気にせずいられるようになってきた。他人がじぶんをどう思っているかということに、じぶんでは干渉し得ないということもわかってきた。だからといって、じぶんの好き勝手にやる、というわけにもいかない。

あらためて、「人にやさしく」とはどうあるべきか考え直していきたい。