世の中ぼーっと生きてたい

ぼーっと生きてる坊さんの話。

じぶんの平凡さを受け入れよう。

じぶんで考えたこととか、思いついたことって

じぶんではおもしろいぞと思ったり、誰も思いついてないんじゃないか?なんて思ったりしちゃう。

でも実際にそれを表に出してみると、みんな同じようなことを考えていて、そんなに目新しいものでもなければ大して面白くもない、陳腐なものなんだと気づく。

それで落ち込んでしまうこともしばしばある。やっぱりじぶんって平凡な存在で、特別な才能なんてなかったんだなーなんて。その現実を受け入れるのはつらいことだ。

 

おちついて考えてみればそんなこと当たり前で、誰も考えつかなかったことをじぶんが思いつくなんてことはあり得ない。

おもしろいという価値観もひとそれぞれで、万人に受け入れられるおもしろさなんて存在するかもわからない。

 

だとすると、じぶんの考えが陳腐なものだったからといって落ち込む必要なんてないのかな。むしろ「案外じぶんの考えなんて大したことないな」と気づくことにこそ意味があるんだと思う。

じぶんひとりでずっと考えていて、それを誰にも言わずにいたら気づけない。

事あるごとにじぶんの考えを他人の目にさらし、あるいは他人の考えと突き合わせてみることが大事なんじゃないかなと思う。

 

いまのじぶんにとって、「じぶんを外にひらく」ことの重要性ってきっとそこにある。

ともすると、「おれの考えを世の中に知らしめてやろう」なんて考えてしまいがちだけど、そうじゃなくて、いかにじぶんの考えが陳腐なものか、じぶんでじぶんに酔いすぎていないか点検するためにこうして何かを発信するのだ。

 

そうしてはじめて、じゃあじぶんらしい考えって何だろうか、どうしたら自分にしかできないものごとの捉え方ができるだろうか、ともう一歩踏み込んだじぶんとの向き合い方ができるんじゃないだろうか。

 

ひとからよく思われようとして何かを装ったり隠したり、あるいは傷つくのが嫌だからと他人を遠ざけていたら、いつまでもじぶんとは向き合えない。じぶんのことがどんどんわからなくなっていくか、または「じぶんはこういう人間だ」と勝手に決めつけてその考えから逃れられなくなる。そうして悩んでいた時期も実際にあった。

 

そうならないために、たとえ笑われようとも傷つこうとも、外にひらくことを続けていきたい。